【ソ連には自由がなかったのか?】

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リュドミラ・ベルソワとオレグ・プロトポポフは、1960年代に活躍した伝説的なソ連フィギュアスケートのペアだ。私のパートナーはプロで踊っていたこともあるバレエダンサーだったのだけれど、当時リンツのバレエ学校に通っていた頃、フィギュアスケートもやっていたことがあって、プロトポポフのことも知っていた。彼が昔の録画をネットで見つけてきて、これがすごいというので、一緒に見ていたのだ。

当時のフィギュアスケートは、今に比べたら、大した技もなく、ジャンプして2回もスピンしたら、もう十分な大技だ。その意味では、実に地味なのだけれど、しかしこの身体の動きの美しさはどうだろう。しっかりと軸が通った動きで、実に優雅だし、力強い。これほど美しい動きは、今の選手でも、ちょっとないくらいだ。

身体の動きの軸の通り方からして、バレエの基礎があるのははっきりわかる。プロトポポフはバレエダンサーだったわけではないけれど、お母さんがプロのバレエダンサーで、ずっとバレエの先生をしていたそうだ。だから、彼もそれなりの心得があるのだろう。

ロシアはバレエもフィギュアスケートもとてもレベルが高いのだけれど、それはソ連の時代から厳しい教育メソッドで仕込んでいるからなのだと一般には言われている。だけど、ベルソワとプロトポポフの美しい動きを見ていて、厳しく仕込まれてやっているようには、私には見えなかった。いや、高度なことを要求するという意味では、厳しいのかもしれないけれど、嫌なことを強制されてやっていたようには思えなかった。

ソ連の選手は、西側の選手とは確かに何かが違う。しかし、強制されている感じなのかといったら、むしろ西側の選手の方が強制されている感じだ。何かしら自分の意志が抗うようなことを強制されたような、心理的な歪みのようなものを感じるのだ。先生や世間の評価に依存させられているようだし、自分がどう見られるのかという不安に支配されているような弱さが透けて見えるようだ。

それに対して、ソ連の選手は、人の評価みたいなものには左右されていないように見える。エゴに左右されていない純粋さを感じることが多い。謙虚というか、純粋というか。彼らにとっては、自分が他の人より何ができるとか、人との比較が重要なのではないように見える。そうではなくて、もっと大きなもののために、打ち込んでいるような謙虚さを感じる。

少なくとも、ソ連の選手たちは、将来どうなるのかということを心配する必要はなかったわけだ。その意味では、彼らは精神的にとても自由なように見える。そこは、西側の選手とははっきりと違う。スポーツ選手やダンサーは、それほど長くやっていられるわけではない。できなくなったとき、そのあとはどうするのか? 今のうちにお店でも買っておくべきなのかとか、今のうちに有名になれば、タレントでやっていけるかもしれないとか、そういうことを考えなければならない。

だけど、ベルソワとプロトポポフの演技を見ていると、そんな不安を感じているようにはまったく見えない。ソ連の選手たちは、選手としての寿命が終わったら、トレーナーになるとかして、次の世代を育てることを要求されるのだろう。そこに選択の自由はないのかもしれない。しかし、どちらにしても、その能力を生かしたことをして、生活が保障されていることは確かだ。だから、名声だとかお金だとかに惑わされずに、ただ純粋に打ち込んでいられるのだと思う。ベルソワとプロトポポフのあまりの純粋な演技を見て、これは西側世界では望むこともできないような幸福だと言えると思った。

ところで、ネットで経歴を見てみたら、二人は1979年にスイスに亡命していることがわかった。ソ連の時代には、勝手に移住することはできなかったから、西側諸国で暮らしたくて、亡命する人たちも少なくなかった。ソ連には自由がないけれど、西側諸国には自由がある、と思い込んだのだ。亡命して、スイスのグリンデルヴァルトに移住したそうだ。

ソ連にいたら、金メダルをいくつ取っても、グリンデルヴァルトみたいな高級別荘地に豪邸を持つような自由はなかったのだろう。だけど、西側諸国では、生活が保障されていないことや、だからお金に支配されるというようなことは、おそらく考えていなかったのだろう。スポンサーの望むままに、あれこれを宣伝しなければならないとか、拒否したら資金を引き揚げられたり、契約を解除されたりするかもしれないというようなことも、おそらく知らなかったのだろう。

ソ連を離れたあとの2人は、あまり幸せそうには見えなかった。少なくとも、ソ連時代のあの純粋さはなくなっていた。あの頃ほど若くはないというのもあるのかもしれないけれど、それだけではないような気がした。西側に来れば自由だと思い込まされて、出てきたけれど、思ったような世界ではなかったことに気がついたのかもしれない。だけど、今さらソ連に戻るわけにはいかないし、西側のスポンサーたちは、彼らが西側諸国の批判をしたり、やっぱりソ連がよかったなどと発言することを許すとは思えない。ソ連からの亡命者たちは、西側のスポンサーたちに、ソ連ネガティブ・キャンペーンに利用され続けることになるのだろう。

実際、昨年2月にロシアがウクライナに軍事介入し始めてから、西側諸国で仕事をしていたロシアの音楽家たちは、ロシアを批判することを強要された。公に批判しなければ、契約を解除すると脅されさえした。それで、メトロポリタン劇場で歌っていたオペラ歌手のアンナ・ネトレプコは、最初の見解を翻して、ロシアを批判することで、契約を継続してもらった。指揮者のゲルギエフは、ロシアを批判することを拒否して、ミュンヘンのオーケストラを解雇された。西側のグローバリストたちは、今でもロシアを悪者にするためにあらゆる手を使って情報操作をしているのだ。ソ連の時代に亡命してきたアーティストなどは、彼らにとって最高の宣伝塔だったのだろうということは、容易に想像できる。

ある意味、ソ連は西側のお金支配の世界から、人々を守っていたと言えるかもしれない。ソ連には、豪邸に住む自由だとか、職業を変える自由だとかはなかったかもしれないけれど、お金に支配されずに純粋に才能を生かして精進し、仕事に献身する自由というものはあったのだ。これは、西側世界では、いくら望んでも、とうてい得られないような自由だ。

ソ連の時代には、大会とかで西側に行く人たちには、監視がつけられていて、亡命するのも容易ではなかったらしい。しかし、ソ連にはない自由が西側にはあると思い込まされ、亡命するように誘惑されて、情報操作に利用される危険があったということを考えるならば、監視をつけて守ろうとするのも、もっともなことのようにも思える。情報が自由になった今だって、西側ではロシアについてあることないことがすべて語られているのだ。東西冷戦下の時代に、一体どれだけの嘘が語られ、信じられていたのかわからない。そうした情報戦から守るために、西側からの情報を制限するとか、西側に行く人たちに監視をつけるとかも、ソ連にとっては国を守るためには必要な手段だったのかもしれない。

つまるところ、金融グローバリストがお金で世界を支配していたために、西側も東側も自由ではなかったのだ。西側では人々はお金に支配されていたし、東側では西側がかけてくる経済封鎖や情報操作に対処するために、自由が制限されていた。それが西側では、東側だけが自由がないかのように言っていたわけなのだ。

しかし今、グローバリストの世界支配も終わりが近づいてきたようだ。結局のところ、それこそが西側も東側も自由でなかった原因なのだから、もうお金に縛られることもなく、本当に自由に生きられる時代が、直にやってくることになるのだろう。