【宗教の封印】

《Chihiro Sato-SchuhさんのFBより》

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【宗教の封印】

どんな宗教であれ、ある宗教を信じている人といったら、その教団と同じ考えを持っていて、教団に従っている人だということになる。これまではそれが当たり前の普通のことだと思えていた。ところが、この間、宮島のエネルギーを解放したことと関係があるのか、あるいは地球全体で次元が変わっているからなのか、それがもう当たり前のこととは思えなくなっている。

昔のある賢い人が言ったことに感銘して、それに従って生きるというのは、ごく自然なことだと思う。でも、それが宗教というものになったとき、教団と教団に従う信者というヒエラルキーができあがる。信者は教団に奉仕したり寄進をしたりする義務があり、そしてそれによって宗教的に報いがあるということになっている。魂の救いというものを、教団が独占してしまって、その会員だけが利用できるようにし、会員になるためには、教団の定める通りのことを信じる義務があるというわけだ。

3年前に奇妙なパンデミックが始まってから、メディアによる大衆操作のことが表に出てきて、支配者たちが100年以上も前から人の心を操作する術を研究してきたということがわかってきた。そのためにイギリスのタビストック心理研究所などに投資してきて、人をまるで操り人形のようにしてしまう洗脳方法や、メディアや音楽、あらゆる娯楽を使って、視聴する不特定多数の人々に一定の同じ印象、同じメッセージを潜在意識に植えつける方法などを使っていたことがわかってきた。そうやって、大勢の人々が同時に同じように考え、同じように反応するようにしてしまうことができ、たとえそれが自分や家族を犠牲にするようなことであっても、自分から従うようにしてしまうことができるというのだ。

ところで、宗教はまさにそれと同じことを、100年以上も前からずっとやっていたようだ。魂の救いというものを、教団が上から与えることができるようなものにしてしまい、それを教団の教義や掟を守ることと引き換えにしている。それで、魂の救いを求める人々は、教団に依存することになり、自分で考えて結論を出すのをやめて、教団の解釈を信じて教団に従い、奉仕したり寄付したりすることになる。しかし、人間は何かに依存すればするほど、自分から自由を売り渡してしまうことになるわけなので、魂の救いからはますます離れていくことになる。

実に皮肉なことに、魂の救いは宗教や教団とは関係なく誰にでも得られるのだということを示したナザレのイエスの教えが、その後しばらくして、世界最大の宗教に仕立て上げられてしまったのだ。魂の救いを宗教から解放してしまったがゆえにイエスは憎まれて、処刑されることになったわけなのだけれど、その処刑の姿が教団のシンボルにさえされてしまった。

一体何だって、処刑の姿などが最高のシンボルになったのだろう? 教団は、イエスは自ら十字架にかかることによって世界を救ったのだと主張しているのだけれど、それはもちろんイエス本人が言ったことではない。それは、イエスのあとに出てきた十字架を信仰する人々の宗教だとも言える。それを信じるのもまた自由なのだけれど、しかし十字架の信仰を前面に出すことによって、イエスの自由と解放の教えが、自己犠牲的な愛の奉仕の宗教に変えられてしまったというのもまた事実だ。

ナザレのイエスの教えを信じる人たちは、ユダヤ教会やローマ帝国など既存の支配に組みさなかったので、最初は迫害された。ユダヤ教徒ローマ帝国も、イエスを信じる人たちを迫害して、反逆者として処刑した。それがあるときから、ローマ帝国キリスト教に改宗して、この教えを支配に利用し始めるのだ。しかしそれは、教団の主である法王だけが神と繋がることができ、人々は教団に従うことによってのみ魂の救いを得られるという、ナザレのイエスの教えとは似ても似つかぬものだった。

ナザレのイエスの物語を書いた4つの福音書は、この教団が編纂して改ざんもしているのだけれど、それでもちゃんと読めば、イエスの教えがそれとは真逆のものであったことは、はっきりとわかる。

福音書は、政治支配に利用する目的で、ナザレのイエスを特別な人物として神格化しているので、実はアブラハムの末裔だったとか、母親が処女懐胎して生まれた子供なので神の子だとか、そういう神話的な要素がたくさん入れ込んである。ユダヤの預言によれば救世主はベツレヘムで生まれたはずだからというので、両親が住民登録のためにベツレヘムに行っていて、厩に宿を取ったときに生まれたのだという話が作られたりもした。

福音書は、イエスを見てきた人が書いた書ではなく、言い伝えを編集してまとめたものだ。言い伝えというものは、語り伝えられていくうちに、尾ひれがついていくことになっている。特別な人物だということを示すために、実は貴い血筋なのだとか、生まれたときから不思議なところがあったとか、そういう話がつけられていく。他の誰かの物語が混同されて伝えられたりもする。それで4つの福音書は、それぞれに別々な尾ひれがついた物語になっていて、一つが正しければ他は正しくないはずだというくらいに違っている。それなのに、教団では何故だかすべてが正しいものとして扱われている。

厩で生まれて飼い葉桶に寝かされたという有名なエピソードも、実は四つの福音書のうちのたった一つにしか書いてないということは、意外と知られていない。もう一つの福音書では、ベツレヘムではあるけれど、生まれたのは厩ではなく普通の家だ。そしてあとの二つでは、生誕物語についてはまったく書かれていなくて、ヨハネのところで洗礼を受けた話から始まっている。そのことからして、生誕にまつわるさまざまな神話的エピソードは、語り伝えられていくうちにつけられていった尾ひれなのだろう。事実はおそらく、田舎の職人の家に生まれた息子で、ヨハネのところで洗礼を受けて啓示を受けるまでは、普通の人と特に変わるところがなかったのだと思う。

神さまとは、無条件で子供を愛し大事にする父親のようなものなのだということを、ナザレのイエスは繰り返し語っている。子供が何をしでかそうが、親にとっては子供が無事でいるかどうかだけが一番大事なことなので、何でもしてやるものだと言っている。誰にでも父親がいるように、誰にでもそういう神さまがついていて、無条件に愛し、すべてを与えようとしているのだと言っている。

エスが「神を信じる」と言っているのは、まさしくこのような存在としての神がいるのだということを信頼して生きることを言っている。そして、こうした信仰が、パン種を入れたパン生地のように、あるいは辛子の種のように、自ずと何倍にも膨れていくのだと言っているのだ。

エスはそれを示すために、障害を持つ人たちを目の前で治してみせたりもしたし、弟子たちを杖一本だけ持たせて旅に出したりもした。わずかなパンを大勢の人に分けて増やしたりもした。世界にはそれほどの大きな可能性があり、そのすべてを私たちの神は与えてくれているのだということを示すためにだ。そのことを彼は「福音」(幸福のメッセージ)といい、それを伝えるようにと言っていたのだ。そして、それが誰にでもできるのだということを示すために、弟子たちに人を癒すやり方も教えて、やらせたりもしていた。このこともまた、どの福音書にも書いてあるのにもかかわらず、知らない人が多い。いや、知ってはいても、意識が向かないようになっているのかもしれない。教会では、イエスだけが神の子で特別だから、奇蹟を起こすことができたのだと強調しているからだ。

エスだけが神の子だというのも、明らかに矛盾している話なのだけれど、これも教会の中では誰も疑わないことになっている。教会の人たちは、神に祈るときに「天にまします我らが父よ」と言っている。我らが父なのだったら、私たちは誰もが神の子だということになる。イエスはまた、「私の父」「私を地上に遣わした方」とも言っているけれど、それは彼だけが神の息子だということではなくて、一人一人に父なる存在である神がいるということを言っている。そうでなかったら、「私の父」とか「私たちの父」とか「あなたがたの父」とか言えるはずがない。だけど教会は、彼だけが神の子であったという風に言っていて、それを多くの人はそのまま信じている。

キリスト教会では、私たち人間が神をそのように身近な存在として考えること自体を、とんでもない冒涜だとしている。父親であるはずの神は、子供の行動をすべて監視して、容赦なく罰するような存在であるかのようなイメージを植えつけられている。まるで、すべてを犠牲にして神に奉仕しなければ、神の国に入れてもらえないかのように思わされている。そして、そこに十字架のイメージが重なるのだ。ナザレのイエスは自分の命を神のために犠牲にしたために、神の心にかなう者になれたのだと。神はそこまでの犠牲を要求しているのだというように。かくして教会は、イエスが伝えようとした「福音」とはまさに真逆なものを人に信じさせることに成功したわけだ。

福音書だけからしても、まるきり矛盾しているのだけれど、信仰している人たちは、その矛盾に気づかないようだ。意図的に情報操作されていると、明らかに筋が通っていないことでも、人は信じ込んでしまうことになる。矛盾していることに気づくのは、タブーなのだ。見ても意識を向けてはいけないことになっている。それで、その点を指摘すると、相手は一瞬目が大きくなり、それから思考停止するようにボーッとした空虚な顔になり、それから話を逸らそうとする。こういう反応と同じものを、私たちはこの3年間何度も見てきたから、それが何なのかはもうわかる。

初めてキリスト教を支配に利用したのは、ローマ帝国だ。そしてローマ帝国は、無条件に従って命を犠牲にする兵士たちを養成して、帝国支配に利用していた。キリスト教化以前には、ローマ帝国はローマの神々を信仰することを属州に強制していたのだ。そして、それを今度はキリスト教に変えた。十字軍では、神のためにといって多くの若い騎士たちが率先して命を犠牲にし、多くの「異教徒」たちを殺したのだ。愛の教えであるはずのキリスト教でも、信じる人に殺戮を行わせることができる。それは、ナザレのイエスの無条件の愛の教えを付け替えて、無条件の服従の教えにしてしまったからだ。

宮島のエネルギーを解放した頃から、何だかそうした構造が透けて見えるように見えてきてしまったようだ。支配構造というものは、中に取り込まれている間は意識に上ってこないけれど、意識がその構造から解放されると、見えてくるようになる。それが今、起こり始めているのかもしれない。2000年もの間、封じ込められ続けてきた、ナザレのイエスの解放の教えが、ついに本当に世界に解放されるときが来ているのかもしれない。

宗教にされているすべての教えは、もともとは解放の教えだったのだ。私たち人間に何がすべて可能なのかを示すものだった。それがすべて支配のための意識操作に使われてしまい、これまで封じ込められてきた。

本当にもう、神の力とかそういう超自然的な力にでも頼らなければ、どうにもなりそうにないというところまで、私たちは追い詰められているのだけれど、そんなことでもなければ、私たちはそこに意識を向けさえしなかったかもしれない。この支配構造を乗り越えていくために、何千年というこの封印がついに解けようとしているのだとしたら、今のこの状況にもまた意味があるということになる。


画像は、2010年にイギリスに現れたクロップサークル。トリノの聖骸布の顔だと言われている。