【人の子なのか、神の子なのか?】

《Chihiro Sato-Schuh さんのFBより》

【人の子なのか、神の子なのか?】

ナザレのイエスは、神の子だから、普通の人間とは違って特別なのだという風に、キリスト教会では信じられているけれど、神の子だから特別だというのは、王族の支配権を正当化するために、昔から使われてきたやり方でもある。普通の人間とは違っていて、特別な血統だから、国を支配するべきで、人々はそれに無条件に従うべきだというような話は、昔から世界中で作られてきた。

ローマ・カトリック教会は、何が正統なのかを決める公会議で、イエス人間性を否定していった。人間として表現している記述を、聖書からことごとく排除していき、彼を神の子であるとした。イエスは人間だったとする説は異端だとして、弾圧されさえした。そうやって、ナザレのイエスキリスト教会の中で、神格化されていった。

ナザレの田舎の大工の息子では、キリストとして認められないというので、マタイ書には、実は父のヨセフがアブラハムの息子のダビデの末裔だとして、長い系図が書いてある。ここでは、婚約者のマリアが処女で神の聖霊が宿って、ベツレヘムでイエスを産んだということになっている。ルカ書では、やはりヨセフの婚約者マリアが処女懐胎したことになっているけれど、ダビデの血統だったので、ナザレからベツレヘムに人口登録のために出かけていて、そこでイエスが生まれたという話になっている。メシアはベツレヘムで生まれることになっているから、何とかしてベツレヘムで生まれたことにしようというので、作られた話のようだ。父親をわざわざダビデの血統にしておきながら、母親のマリアが処女懐胎したのなら、ダビデの血統を受けていないことになるわけだけれど、そこは突っ込んではいけないところなのだろう。

マルコ書とヨハネ書には、イエスの生誕については何も書いていなくて、イエスが洗礼者ヨハネのところに洗礼を受けに来たところから始まっている。おそらくは、これが事実なのだろう。イエスは、洗礼者ヨハネのところに現れるまでは、特別な人間だと思われてはいなかったのだ。彼が人を癒やしたり説教をしたりするようになって、群衆がついて回るようになっても、生まれ故郷のナザレの町に戻ってきたら、イエスの家族を知っている人たちは、彼を信用しなかったということが、マタイ書とマルコ書には書いてある。そこで、「預言者は、自分の郷里や自分の家以外では、どこでも敬われないことはない」という有名なセリフを言っている。つまり、生まれ故郷の町では、イエスは敬われなかったのだ。生まれにしても育ちにしても、特別なところがないと思われていたからだ。ただの田舎の大工の息子以外のものではないと思われていたからなのだと思う。

2007年に私が初めてナザレのイエスとコンタクトしたとき、彼が神の子だと言われているのは本当なのかと、神さまに尋ねてみたことがある。イエスにではなくて、神さまに聞いたのだ。彼は本当に神の子なのかと。すると、即座に答えが返ってきた。「え? 誰が神の子じゃないの?」と神さまは言ったのだ。驚いているようでもあったし、おかしがっているようでもあった。言葉だけだとわかりにくいけれど、神さまが何を言おうとしているのかは、すぐにわかった。もちろんイエスは神の子だ。だけど、神の子でない人間なんてどこにいるのか、と神さまは言ったのだ。

そのことに気づいたとき、私は、あっと思った。いくつもの概念がいっぺんに意識の中に入ってきた。キリスト教のお祈りでは、「天にまします我らが父よ」と神に語りかけている。我らが父、と言っているのだから、皆、神さまの子だということになる。それに、イエスはいろいろな場面で、神はあなたがたの父なのだということを言っている。

「でも、キリスト教の人たちは、イエスが神の子だからどうこうって、特別な人間みたいに言ってるけど? 彼が十字架にかかることが、神の望みだったとか」と私はさらに神さまに尋ねた。すると神さまは、何だかしみじみと懐かしそうな顔になって言った。「私は何も望んでいないよ。だけどあれは、なかなか独創的だった」

この頃では、神さまはハイヤーセルフと言って、自分自身の高次元意識に他ならないということを言っている。それは、普通に「自分の意識」だと思っている顕在意識の領域を超えて、宇宙意識とも一緒になっている意識なので、まるで自分から離れた上の方からやってくるメッセージのようにも思える。しかし、それは自分の外にある意識ではなくて、内なる意識だ。しかし、その次元の意識になると、地球全体の意識、宇宙全体の意識をも共有しているので、内なる意識という言葉で想像するような狭いものではない。テレパシー的なコミュニケーションやアカシックレコードへのアクセスなども可能になる意識の領域だ。

ナザレのイエスが、神はあなたがたの父のようなものだと言っているのは、一人ひとりがその意識に守られて、導かれているという意味なのだろう。親が、子供一人ひとりに必要なものをすべてそろえてやって、やりたいことができるようにしてやるように、私たちの高次元の意識は、必要なものがすべて整うように、ちゃんとはからってくれている。これは、波乱な人生を歩んできて、いろいろなシンクロを経験した人は、よく知っていると思う。何のあてもなくても、いつもちゃんとどこからともなく助けが現れて、思ってもみないようなところへ導かれていったりするものなのだ。それはまるで、宇宙のお父さんみたいな存在がちゃんと見ていて、助けてくれているように思える。

彼は、人を癒やす方法を弟子たちに伝授してから、杖だけ持たせて旅に出したりもした。人々のために働いていれば、生活に必要なものは、必ず与えられるはずだからと、お金も食糧も着替えの服も何も持たないで行かせたのだ。弟子たちは飢えもせず渇きもせず、いつも住むところも食べるものも十分に得られて、無事に帰ってきた。彼自身、行きあたりばったりで生きてきたから、必要なものが必ず現れるのを知っていたのだろうけれど、それが誰にでもできることを示そうとして、弟子たちをそんな旅に出したのだと思う。

ナザレのイエスは、どこかで古代ユダヤ神秘主義に触れて、そこでヒーリングの技などを覚えたのではないかとも言われている。イスラエルの失われた支族がその知を持って、世界中に散ったのではないかという説があり、ハワイのフナ(ホオポノポノ)と呼ばれるシャーマニズムは、古代ユダヤ神秘主義が根底にあるようだと、イギリスの言語学者のマックス・フリーダム・ロングは言っている。言語学的に見て、明らかに古代ユダヤの言語と関係があるというのだ。

フナでは、私たちの意識は、クー、ロノ、カネの3つに分かれていると言っている。クーは潜在意識や感情、ロノは顕在意識や理性、カネは宇宙意識や高次元意識、つまりハイヤーセルフのようなものとしての神の意識だ。そしてフナでは、この3つを統合させることにより、現実を望むように変えていくことを教えている。

ナザレのイエスが説いていた「無条件に愛する父のような神」は、まさしくこのカネのようなものだ。自分自身の意識だから、自分のことは親のようにすべて知り尽くしていて、理解しているし、それで 私たちが見えていない領域をちゃんと見ていて、必要なものが整うようにはからってくれている。彼はまさに、その「父なる神」の力を信じることで、不可能に思えるようなことも、可能にすることができるということを、人々に教えていたのだ。

まさにそれゆえに、ナザレのイエスユダヤの宗教権威に憎まれたのだと思う。誰もが神と話して、その力を使うことができるということになれば、人々は宗教権威に従わなくなってしまうからだ。それで、ナザレのイエスが反乱を起こしてユダヤの王になろうとしていると言って、捕らえてしまった。

その後、ローマ帝国の国教となったキリスト教は、イエスを普通の人間とは違う特別なものとして権威づけるために、「神の子」だとしたのだ。そして、イエスの受難を神格化することによって、ケルトやゲルマンの土地で、キリスト教を強制して、支配していった。神が望むなら、自分から処刑されたりもするような人間だけが、天国にいけるというような話に書き換えて、内なる宇宙意識の力を封じ込めてしまったわけだ。

キリスト教会では、普通の人は神とコンタクトすることなどできないし、そんなことができると思うのは、神に対する冒涜だみたいに言われているらしい。ナザレのイエスと初めてコンタクトした頃、そのことをドイツ人のカトリックの友達に話したら、彼は青くなってブルブル震えながら、「こんなことを教会の人たちが聞いたら!」と言った。彼はスピリチュアルな人でもあったのだけれど、カトリックで育っているので、反射的にそういう反応になったようだ。

アーティスト仲間だった修道女の友達に、「あなたたちは神さまを信じているから、恐いものなんて何もないんでしょうね」と言ったときにも、やはり同じような反応が返ってきた。彼女もブルブル震え始めたのだ。私は、修道院に入るような人は、神さまが守っているということを本当に信じているのだと思っていたので、かなりびっくりした。「いえ、信仰を保つことは簡単なことではありません」と彼女はブルブル震えたまま言った。

サードアイが開いている感じのオーラを出しているプロテスタントの牧師さんに、「神さまと話す経験をした方なんでしょうね」と言ったときも、やはり同じだった。その牧師さんも同じ感じでブルブル震え出したのだ。私が思った通り、神とコンタクトする経験をして、牧師になったという人だったけれど、教会に入ると、神と話せると思うなんて、高慢だとか言われるらしい。神さまというのは、ずーっと遠い高いところにいるのだから、自分が話せるとかいうのは違う、と彼は困ったように言っていた。

ブルブル震え出すのは、タブーに触れたからなのだろう。キリスト教会は、まさに神の意識と繋がることを封じ込めるものになっていたのだ。ナザレのイエスが解放しようとした神の意識を。彼は、私たち人間が、実はどれだけの大きさを持っているのかということを伝えようとしたのに、キリスト教会は、人間を神の威光の下に押しつぶされているような小さな存在にしてしまったらしい。

さんざん書き換えられた福音書でも、読み取ろうと思えば、やはり真実のイエスの姿を読み取ることはできる。そして、そこから読み取れる彼の姿は、人間の持つかぎりない大きさと可能性とを示している。この2000年の歴史は、ナザレのイエスをめぐって、人間の可能性を解放しようとする力と、それを封じ込めようとする力とが、せめぎ合って、戦い続けていたのかもしれない。もしそれが、イエスが予言していた黙示録的な「艱難」であるとするならば、今、この戦いが解放で終わるときが、もう来ているような気がする。


画像は、2009年にオランダにできたクロップサークル